昭和44年02月01日 朝の御理解



 御理解 第86節
 「女は世界の田地である。世界の田地を肥やしておかねば貴いものができぬ。女は家の家老じゃ。家老がようなければ城がもてぬというが、女がようなければ家がもてぬ。」

 女性に対する御理解でしょうね。今日は私ここは生みなす事の出来れるものね、産みなす事の出来れるものと言う意味で、女はと仰るところを頂きたいと思うのですね。ですから男でもなからねば女でもない、産みなす事の出来るもの、いうなら私共信奉者の一人一人がです、そこに生み成していかなければならない。「信心して霊験のあるを不思議とはいうまじきものぞと、祈りて霊験ない時はこれぞ不思議なることぞ」とね。ですから信心してとこう言われる。
 信心してと、信心頂いておる者の全てがね、いわゆる霊験を現わして行く事が出来る。いわゆるこれは新たなものを生み成して行く事が出来る。もしその産みなす事が出来ないとするなら、もし霊験が現れていないとするなら、これぞ不思議なる事ぞ。とそこにひとつお互いが大いに不思議を感じてです。ついそこんところを追求して行かなければならないと思うのです。ですからまぁお道の信奉者は世界の田地じゃからと、いうてもよい訳ですね。それがお家なら日本の田地と言うても良い訳ですね。
 教団のというても良いですね。教団の発展比礼というものは、その信者が一人一人が、霊験を現わして行くというおかげを受けて、初めて教団が発展する、ということが言えますから、教団の田地ということも言えますね。信奉者の一人一人が、でも少し小さくいうとなら、」教会の田地ということも言えますね。合楽教会に御神縁を頂いておる、皆さんの一人一人がね、いわば霊験を現わして行く。それがそのまぁ合楽教会の比礼であり、又は田地である。
 ならも少し細かくいうと銘々の家庭の田地なのです。自分の家の田地なのですね、家の中に一人の人が信心する事によってです。その一人の人が霊験を現わして行く事が出来るのです。それには田地を肥やさなければ出来ません。ですから家の中に二人三人家族を挙げてということになって来る時に、それが大きな力になり、それが豊かないわば田地になって行く訳ですけれども。なら家族を挙げて信心しておるから、田地が肥えるということではありませんね。
 肥やしておかなければとこうおっしゃる。本当にその田地が肥えておらなければなりません。それはそこに良い種を蒔いたら良い芽が出て、花が咲いて実らせて頂けれる良い田地が必要なのです。家の中の田地が皆さん肥えておるでしょうか。豊かになって行きよるでしょうか。もちろん田地とは銘々の心の事ですね。自分の心がいよいよ地味豊かになっていきよるでしょうか。例えばもしなっていきよらないものがです。千人万人寄せ集まったところがです。
 それは教会の田地にもならなければ教団の田地にもならない。ましてや世界真の平和を如何に口に致しましたところでです、世界の田地にはなり得ないのです。今日ここんところを女は家の家老じゃとかね、又は女がようなければ家がもてんと、こう言っておられる。女というところは産みなす事の出来れるものね。男が産み成そうと思うたって、男は生み成す事は出来ません。ですからその産み成す働きと、産み成す力という、お互い皆がそれを持っておるんですけれども。
 生み成されていないとするなら、これ田地が肥えていないからですね。「信心して霊験ですね、みかげのあるを不思議とは言うまじきものぞと、祈りてみかげのない時はこれぞ不思議なる事ぞ」とね。言うなら信心を頂いておって、おかげの受けられないということはね、受けられないのがそれの方が不思議なんだ。良いものが産み成されていないなら、それが不思議なんだ。そこに銘々がひとつ不思議と感じなければいけませんね。そしてなるほどこれでは生み成す事が出来ないこと知らにゃいけません。
 ただお取次ぎを頂いておかげを受けておるということ。昨日もある方がお参りして毎日日参して来ます。もう本当に一月と言う月はまぁ本当に次から次と、もう矢継ぎ早にもう心が爆発するじゃろうかと、言う様な問題が次から次へと起きて来る。体の上にも家庭の上にも起きて来た。けれども元旦の合楽教会信者皆んなが、今年の焦点に頂いて居る、いよいよ「より明るく、よりにこやかにと言う」ただその御教えが、人月をおさえて、しかもそれがもう本当に、こう言う御神意であった。
 こう言うおかけ下さる事の為であったとみんなおかげになった。けれどもそれは大変な大変にきつい一月という月であったと。して昨日その事のお礼お届けがございましたね、そしたらもう本当に本人はそれこそへとへとだったけれども、おかげを頂いたとこういう訳なんですね、一月を締めくくってみた時に本当にあれもおかげであった、これもおかげであったということが分かった。いうならば昨日の朝の御理解からいうならば、日に日にと言うのでなくて、その月の締めくくりによってです。
 いわば大晦日の思いが心の中に頂けて来た。この二月に入らせて頂いて、二月の一日からは一日を言うならば、この心でおかげを頂きゃね、夜が明けたら元旦と思うてという様な、この二月こそというまたそういう新たな信心が頂けるだらうと、ですけれどもその時に私が頂きますのはね。二人の人が物をこうやって荷のうておる。二人でこう担いでおるわけですね。ところが後の人がもう殆ど手前の自分の足に着く位にですね、そのこう引っ張って引いておる。前の方にはいうなら重みがかかっていない訳です。
 後ろの人が荷負うておる。もう先生大変なね一月という月は、大変な月でした。とにかくへとへとの月でしたと言うけれどもです。もし信心がなかったら、もしこの教えを頂いていなかったならね、もうこれはとても一人で持てれるもんではなかったということを、私は改めて気付かせて頂いた。もちろんお取次ぎの働きです、いわゆる金光大神の働き、金光大神がその重みの殆どを荷負うて下さる。先の方を担いでおるのが、お取次ぎを願った信者の事ね。
 それでもやっぱり信者の方はへとへとであつたと、こう言うのであるけれども、こちらを担いでおられる金光大神は、大変な重みを担いでおられる。これがお取次ぎの働きだと、私は昨日昨日ていうか、最近有り難いと思う事は、この一番月のしまいね一月31日昨日ですね、一月は昨日でした。一番その最後のいうなら月末の夜の御祈念に、皆んながですね、一月の事をあれあれまぁつらつらと思うて、大変おかげを受けた月であったとしてですね、お礼参りがだんだん増えて来ておる事ですね。
 もう何時もそれを感じるのです。月末31日、30日、31日の月末の夜の御祈念。もう本当におかげを頂いてという何というですかね、その何ともいえんいわゆるお礼の、お礼のお参りなんです。そういう信者の方が段々こう増えて来ておる。いわばその田地を肥やして行かれる方達が段々増えて来たと。一日はまぁどげんこげんおかげ頂かにゃいけん、もう一日だけは参ろうといったようなのが多い中にです、31日を締めくくってみて、本当におかげを頂いて有り難いと。
 思ゃあ思う程おかげを頂いたと言うね、篤い心でお礼の出来れるということ。これはそれぞれのいわば心の心というか、いわゆる田地が肥えていきょる証拠。御祈念を終わらせて頂いてから、私夕食を久富さんと夕食を頂いた。ほいで昨日はテレビを見る人もなく、炬燵のところへ、桜井先生と久富繁雄さんと私と三人で、私の御飯の後お茶を頂かせてもろうて、いろいろとお話しが始まっておった。何と言うでしょうか、あの信話といいますね、信、信、信心の信と話、又いゃ神語りとも申しますね。
 こりゃ神様と神様が話ござるような感じ。私昨日私はもう本当に黙って聞き役でした。繁雄さんと桜井先生が、まぁ一生懸命というよりもポツポツとこう話される。はぁ今夜は早う休まにゃと言うのが、もうついつい夜の更けるのも忘れるようにしてお話を続けられる。その話を聞きよりましたら、もう段々有り難うなって、もう涙が流れて涙が流れてしょうがない程有り難うなって来た。お二人の話を聞きながら、信心の信味というかね、信心の味わいというか、地味豊というか。
 はぁこういうのをいわば豊かなというのであらうとこう思わせて頂く。もう尽きる事のないお二人の話を、もうそれこそこうもう私の存在を忘れておられるようにして話していかれる。それがもう何ぁんともいえんその、それこそあの豊譲な土地に水をまくように、ずうぅっとこうような感じでお話を続けられる。はぁこりゃ本当に神様と神様が話してござるとの様な感じです。もう皆んなが昨日はどうしたものか、皆んながあすこにコタツの間に入って来ない茶の間に。
 三人だけ、お二人が一生懸命信心お話をされる。もう二人ともそのう話をしておられることは、信心ちゃ有り難い事ですなぁということである。本当に何でも同んなじだけれども、基本になるものね、信心の基本になるもの、それは何と言うても真心だと真だと、その真が真心がです、どういう様なものかという事も考えた事もなかった私共がです。親先生の話を頂いておる内に、真心とはと、それを分からして頂こうとする気持ちが生まれて来たり。そんなら真とはとね、お話の中から頂こうとする。
 しかも身を持ってそれを感じ取ろうとする事をです、信心によって教えて頂いて分からんなりにも、それを求め続けて行くところに、いわゆる霊験が現れて来るということ。今度桜井先生壱岐の向こうに対馬というのがあります。もうお天気のいい日には釜山が見えるという島なんです。朝鮮が見えるという島なんです。日本の一番北の端になる島でしょう。そこにお仕事の事で今度あちらにお出でになられました。もうそのう行き戻りの話をなさっておられましたけれども。
 神様のお守りの中に御守護の中にあるんだなと、いうことを感じさせてもらいます。先生非常にこの特に乗り物に弱い船に弱い訳なんです。船が少し玄界灘に出ますと、もうこう船が上下に横にこう揺れる訳なんです。と聞いただけでとにかく病人の様になってしまわれます。それがまぁ苦になっておられたんですけれども。もうお取次ぎを頂いてお願いをして、仕事の上でどうでも自分が行かねばならないと言うのでお出でられた。これをおかげを頂かせてもろうて。
 もう今度船の中でこそ一つおかげ頂かせてもらおうと思うて、その元旦のいよいよ「より明るくよりにこやかに」と、よりにこやかによりにこやかに、より明るくより明るくともう思うて、もうそれを唱え続けてまいりました。ところがですね、確かに船は上下にこうやってこう、こうゆするようにあっておるんですけれども、それを段々感じなくなった。おかげで向こうに着かせて頂くまでおかげで酔わなかった。帰りなんかはもっと素晴らしい事になって。
 、それをですねその揺れるとか酔うとかと、いうことを感じられない位におかげを頂いた。とにかく出来る出来んはともかくとして、その教えに本気で取り組んでですね、取り組むということね。別にそこに腹の立つような問題が起こって来るわけでもなからなければ、特ににこやかにしとかねばならんというな。船の中に旅行中ですからね、けれどもそれをその教えを丁度いうならば、船に酔わしてもらうもらわんように、一つの薬のようにそれを頂き続けておられたのです。
 その「明るくにこやかに」という、いわば教えの薬をずうぅっと頂き続けて行ったら、おかげでもう不思議におかげ頂いたというだけではなくて、そこの船の中から向こうに降りてからも向こうに宿屋に着いてからも、対馬の教会におかげ頂いてからも、その間のおかげというものは、もうそれこそ本当に神様の御神意御守護の中にあるのだということを、思わなければおれない程のおかげを受けておられる。はぁ信心ちゃ有り難いなぁというのがです、そういう中にあって始めて。
 いうなら霊験を現わして行って、始めて有り難いなぁという実感が伴のうて2来るのです。いつの場合でも真とは真心とはと、心に懸け続けさせてもろうてね、始の間は何にが何んやらわからなかったけれども、これが信心の基本だとわからせて頂いたら、どうでもこうでもそれをそれをわからにゃあいけん。お参りを始める様になってから三年目位だったでしょうか。ある日お参りさせて頂いたら。あのう或る方がここでお取り次ぎを願っておられる。先生からえらいお叱りを頂いておる。
 「あんた程しの信心を頂いておる者が、そういうことが分からんでどうするか、ここに真が真心が出されんでどうしておかげを頂けるか。真とはどういうことと思うか、真心とはどういう事と思うかというてもう切々と、このう人が怒られながら真、真心についてから御理解頂きょる。繁雄さんが信心されてから、求め続けて居られるのが真であった真心であった、簡単には聞いた真とは、いうなら大砲のようなものであって、真心とはその玉のようなもんだと。
 そんならそれが分からなかった。後で信心させて頂くようになって、それを求め続けておらして頂いて居る時に、その教えとそのう懇々と御理解を頂いておられる方の、話を聞かせて頂きよってです、はぁこれだと分からせて頂いたその日から、私はこの事について取り組ませてもらい、この事をもって様々の事柄に当たらせて頂いておるとこう言うのである。寒い中に来客があった。「あぁ寒かったですねぇ」と言うだけでなく「まぁちょっとお上がり下さい」と座布団どもすすめて熱いお茶どもすすめて。
 、そして温まってもらおうと、これが真と真心だと、あぁ寒かったでしょうだけではいかんって。真心で思うとりますだけではいかんて。それが真に現わさなければね、進める一枚の座布団の上にも、進める熱いお茶の中にもね言葉だけではいかん。実際その事がなされて始めて相手に通うのだと、言うて今度あのう十日間の梅里先生に、お茶の奉仕をされた時のお話をされたのです。もう私はその辺のところの話に、涙が流れて涙が流れてしょうがなかった。
 ほりゃもう私共のようなこんな話振りではないのです。繁雄さんの話振りは、私はあらためて繁雄さんの話を有り難いと思うて昨日頂いた。それこそなるほど田地が肥えていくとはこういう様な事であろうか。お互い心が肥えていくというのはこういう事であろうかと、初めの間は何とはなしに冷たい感じであったね。お茶の奉仕をあのう、庭、お庭をされる先生にされる。だからもう自分ではいかんとひざるのじゃなくて、ここんところに真、真心を現して行こうと。
 四日目になり五日目になり、段々段々先生が喜ばれるようになった。お茶を所望して受けられるようになった。手をついてから結構なお茶でしたというてお礼をいうて立たれるようになった、というてその十日間のいろんな体験を話しておられる。お互いどうでしょうかとね、お互いが世界の田地とはいわずとも、教会の田地としての信心が豊に私はおかげ頂いていきよるじゃろうか、家の中でのいわば家の田地としての、心の豊かさというかね、その事が豊になっていきよるでしょうか。
 教えというものがです。具合の悪い時にはお薬を飲むように、ずうぅっと心に頂き続けられておるであろうか。信心の根本的なところはここだと分からせて頂いて、その事を分からせて頂こうと、ただ話を聞きゃすぐ分かる事でも、はぁ真とは真心とはこれだこのことだと、分からせて頂く為のいわば追求が日ごろなされておるであろうか。それが次の瞬間から行じられる程しに、分からせて頂く為の精進がなされておるでおろうか。豊どころかいわば信心はしょっても、心は荒れに荒れておるような事はなかろうか。
 これではどんなよい種を蒔いても、良いものが生まれて来る筈はない、芽生える筈はない。信心して霊験のあるを不思議とはいうまじきものぞと、祈りて霊験のない時はこれぞ不思議なる事ぞというところにです。ひとつ不思議を感じさせて頂いて、自分の心の田地が豊になり、いわば日ごろ肥やしていない事を悟らせてもろうて、本気で肥やす事に努めなければいけない。お参りはしよるお話は聞きよるけれども、果たして自分の心を豊にいく為の、いわゆる心を肥やす働きがなされておるかどうか。
 そこから良いものが生まれて来る。只おかげを受けておるというのは金光大神にだけ大変な重みをかけて、自分達はそれでもへとへとの様ではあるけれども、先棒を担いでおるけれども、重みの殆どは金光大神が担いでおって下さる様な、只そう言うおかげだけに腰掛けておる様な事はなかろうか。大変な一月と言う月は大変な月でございましたと。けれども私共は大変な事というておるけれども、金光大神は取次ぎをして下さる。金光大神様はこれよりも私より。
 もっともっと辛い苦しい思いをさせておるという事をです。分からせて頂く時に、例えば一月を締めくくった時にです。お礼参りをさせて貰わねばおれないということになって来るんじゃなからろか。有り難い勿体無いそのお礼参りが、いわば明くる日の夜が明けたら元旦と思うてというような心が、頂けて来るのじゃあなかろうか。田地を肥やさなければ良いものは生まれません。お取り次ぎを頂いておかげを頂く、だからお取り次ぎを頂いて、どうぞ世界の田地である。
 教団の田地である、教会の田地である、家の田地である、その心をですその田地がですいよいよ豊になる。いよいよ肥えていくところのおかげを頂かせて下さいと言う信心、そう言うおかげを願う信心。女が良うなければ家がもてぬ。信心を頂いておる信者が良うなければ教会がもてぬ。そう言う教会がなからなければ教団がもてぬ。その教団があげて世界信の平和を祈らせてもらう。世界総氏子の総助かりを願わせてもらう。そこに初めてです、私は世界の田地というような大きな言葉が。
 ここに使えるのではなかろうかとこう思う。お互い本当に世界の田地になろうね。それを小さく言うならば家の田地なろう。教会の田地になろう。しかも豊かな田地にならせてもらおう。その為の根肥やしはいとうまい。その為の精進ならばね前には進んでも、後には引くまいというような私は信心の体勢をを整えての信心。一月という月は何とはなしにまぁ形の上でいうても暴飲暴食の一月でございました。これは私の事ですけれども。毎日毎日お正月の何じゃかあってない。
 お客様のない事はないお相伴と言うか、お酒とお雑煮でお腹の中は何時も一杯というような感じの一月でした。もう胃が荒れるに荒れておる。二月の月は少しもう失食。いよいよいわば心を豊かに肥やさなければならない月と、いうような感じです。二月はいよいよ目の細かいねそのいう意味での、一月に荒れて来た心をです。胃腸を整えさせて頂くという意味合いにおいてもです。
 一つ目の細かい信心を頂きたいと私は願うとります。女は世界の田地である。世界の田地を肥やしておかねば貴いものが生まれぬ。只のおかげは生まれておっても、お取次ぎを頂いて、お取次ぎの金光大神に重荷を掛けておるから、おかげは受けておるけれども貴いものではない。貴いものが生まれて来る様なひとつ おかげを頂く為に、いよいよ田地を肥やさせて頂かねばならんと思うのです。
   どうぞ。